たかだかバイトの分際で

大学を辞めるつもりで休学して、食い扶持を稼ぐためにレンタカー屋でアルバイトを始めたのは冬だった。最初は夜勤で入っていたけども、肉体的疲労が増していくばかりで無理を言って夕方から深夜にかけての時間にずらしてもらった。

レンタカー屋の書き入れ時は休前日と休日だ。駅前に近いから歩道も車道も賑わい、飛び込みのお客も相まって店の中はてんやわんやの大騒ぎになる。酔っ払いは道路に飛び出し、タクシーたちはしのぎを削って都道をすっ飛ばす。その間隙を縫って私は離れの車庫から車を持ってきたり持って行ったり、冷房のない空間で洗車したり、お客に向かってニヤつきながらオプションの話をしていたりする。飲み屋から聞こえてくるバカ笑いのデカい音を聞きながら。

離れの車庫から自転車で戻ってくるとき、どうしても商店街の中を通って行かなければならない。幅員は狭いわ人はイモ洗い状態だわ歩行者天国でもないのに看板は車も通れないくらい道に出してるわ、急いで戻らなきゃ、そう自転車を走らせてるとき、道に広がって歩く大学生、飲み屋の前でいつまでも解散しないワイシャツとスラックスの集団が制服を着た私の目の前で通せんぼしてくる。

こちらの信号が青に変わっても私の乗った車の前を平気な顔をして渡ってくる。僕はさっきまで働いてたけど、夜だし、労働なんて忘れちゃった、夜中は誰も働かないんじゃない?とかなんとか言い出しそうな人たちが。万が一に駅前の誰かを撥ねたとして、もしかしたら裁判官が私に同情してくれるかもしれない。減刑してくれるかもしれない。

もうほとんど心労が限界にきている。お願いだから、たかだかバイトの分際を14時間も休憩なしで働かせるのはやめてくれ、チームワークを乱す人間を月に20日間もシフトに突っ込まないでくれ!

いつかは金土をしがらみなしに過ごしたい。

1週間で2回交通事故を起こした

カタカナの「ト」の短い線から長い線へ出ようとしたら中央分離帯の縁石部分にフロントタイヤから突っ込んでいき、YZF-R3は縁石に叩きつけられ体は道路の上に飛んでいった。結果としてフロントフォークが歪み、アッパーカウルは剥がれ、メーターを留めておくためのステーは取れた。

 

数日後、友人に借りたGB250でバイク屋を見に行こうとした道、右からの救急車にすんでのところで気づき、ブレーキをかけすぎてフロントタイヤをロックさせた。もともとフロントフォークのねじれがあったから、パニックになった私はハンドルを真っ直ぐにしたけれどもタイヤはそっぽを向き、そのまま右に倒れていった。道路の上をほとんどヘッドスライディングしていき、サイレンを鳴らしていた救急隊員は私の方へ駆け寄り、二言三言声をかけてさっさと行ってしまった。

大学生のソロツーリング入門

私がオートバイを買ったのには「乗り物を自分で運転する旅を経験しておきたい」という理由があった。電車やバスに乗っているとメシを食う、眠る、考え事をするの繰り返しになってこれはこれで面白いのだけれども運転していればメシは食えず、眠れず、考え事をしていたら事故を起こす。去年あたりはそう考えていた。本当にそうなるのだろうか?

 
運良く今夏は2週間ほど西日本をツーリングする機会に恵まれた。山陽山陰そして四国……1日に下道だけで600キロを走るような日もあった。当然渋滞もあるし、「越波注意」の看板がある道で波しぶきを浴びたりもした。しかし意外にもオートバイで走りながら考え事をする、ということはできた。交通法規を守り、前の車が遅くとも車間距離をあけていれば自然に心の余裕が生まれ、そこから周りの景色をちらちらと盗み見するように見、アクセルをひねりながら物思いにふけり、県域FMのMCやDJの喋る言葉の中で気に入ったものがあれば次の休憩でメモをとっていた。この作業はかなり楽しいものだった。
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そもそも行きずりの関係が多い旅という行動に私の性格が合っていたのかもしれない。長距離列車の中でお寒いですね、どこまでいかれますか、列車に乗ってポルトガルまで、そうでしたか、お互い気をつけていきましょう、という他愛もない会話はオートバイに乗ったとしてもほとんど変わらない。Ninjaかっこいいですね、どちらまでいかれますか、フェリーに乗って北海道まで、ではお互い安全運転で……。それっきり一生会わないだろう人間に話しかけ、別れればまるで何もなかったようにエンジンを始動させる。遠くから来たからといって特別扱いはされない。観光地の駐車場にオートバイが並んでいてもライダー同士の会話が弾むとは限らないし、互いの存在がないかのように振る舞うこともある。列車の旅と違うのはこの部分だろうか。日本人同士、シャイなところが表立っていると言えばそれまでだが旅行中の解放的な気持ちをもってしても克服できない。どちらにしろ旅の関係が一生の友、将来の伴侶となるのは異例中の異例なのだから躍起になってやたらめったらに話しかけると白眼視され、行きずりの関係すら危うくなる。
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関西のライダーのたまり場にも行った。関東でいえばそれぞれエバグリのような場所と奥多摩のような場所だ。「東京から来なはったんやって」と言ってもらっても彼らがかわいいと思うのはそれぞれのオートバイだ。俺のバイク撮ったってや、とおどけられて何枚か写真を撮ったがそれを後で送ってくれとは言われなかった。
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新鮮味はこれまでよりもかなり疲労がたまるということにあった。日中ほとんど同じ体勢を保つのだから当然だ。眠っている間に遠くまで来てしまったという驚きはあるはずもないが、今日1日を有効に使ったという満足感は手軽に得られる。1日の終わりに日記をつける余裕はなくなったけれども休憩中のメモを読んで後で思い出せば良い。あとは地図を見て、スマホをいじりながら明日の目的地を決めれば良い……。
 
子供の頃は寄るたびにワクワクしていたSAやPAもソロツーリングでは心動かされることはなかった。人っ子ひとりいない地方の小さなPAだけでなく、人気のあるSAでも旅行中なんだと自覚することはなかった。それよりも下道のコンビニやドライブインや道の駅の方が、ああ俺は遠くへ来たのだと思えることが多かった。
 
オートバイは素晴らしい。4輪の旅にも興味が沸いてきた。2輪免許をとってから幾度か妄想しているのが軽トラの荷台に幌をつけ、中に布団を敷いて夜にはどこかに車をとめて荷台で眠る旅行だ。明日からは教習所の教官を急かすことにしよう。

НАРИТА

ロシア機は古いという固定観念もまた古かった。成田空港に駐機しているのは隣にいる全日空機と同じくエアバスだった。チェックインは厳格だろうと思い、ありもしない英語を強引に引き出して不測の事態に備えたのだが、カウンターに並ぶのは客も従業員も日本人がほとんどであって、私の一夜漬けは試験よろしく徒労に終わった。15:40発、19:20着、時差を差し引きして2時間40分のフライトだった。夕食時でもなかったから機内食トルティーヤ一つの簡素なものだが、案外おいしかった。駐機場から滑走路へのタキシングの間に、背が高く肩幅も広いスキンヘッドのロシア人乗務員が乗客に緊急時の脱出について実演しながら説明していた。首にかける浮き輪を彼がかけたとき、まるで赤ん坊のようだった面白くそれを見ていた。彼がせわしくお茶を配り、ゴミを回収したかと思うとエアバスは降下を始めた。眼下にはただ一面の草原と沼が広がっていた。だだっ広い草原と沼、これしか見えないのにますます降下する、まだ降下する、紅白のチェック柄の小屋がすぐそばに見えたと思ったらエアバスは滑走路に進入していた。駐機場には軍用のヘリコプターと小型旅客機が肩を並べ、我々の機体は幅を利かせていた。
ボーディングブリッジで赤ん坊乗務員に見送られるとターミナルへつながる部分の最深部から水色のカッターシャツを着、カーキ色の制帽を被った警備員がこちらを見ていた。近づいていくと、日本にいても違和感のない顔立ちの警備員がいた。彼は飛行機から最後に降りてきたグループについてきて入国審査場の一番後ろに立ち尽くしていた。大きなグループの後ろにつき自分の番を待っていると、後ろから警備員が呻き、振り返ると彼は私に「右が空いたから行きたまえ」とばかりに「審査中」のサインが点灯したブースを指し示した。恐る恐る近づいてみると審査中の人間はおらず、代わりに面倒くさそうな顔をしたおばさんがアクリル板の向こう側にいた。「もう上がりにしたかったのに」と言わんばかりであった。私のパスポートに無言でスタンプを押し、さっさと返してきた。
面倒くさそうなのは税関も同じであった。ターンテーブルのそばに税関職員らしきグループがいたのであったが、入国カードも荷物の開示も要求せず、我々は黙ってバックパックを受け取り到着口へ歩くのみであった。
ウラジオストク国際空港から市街地へと走る白タクの中で、私は自動車販売店が連なっているのを認めた。日産、トヨタマツダ、スバル……。販売店だけではなく、周りの車も日本車がほとんどであった。この国は右側通行右ハンドルなんだな、と思わせるくらいに日本の中古車が多かった。この白タクもプリウスの中古らしく、乗り込むなり「ETCカードが挿入されていません」と間抜けな自動音声を発していたのであった。運転手はずっと無言であるし、窓の外には日本の郊外とそう変わらない景色が続いていた。俺は旅行先にロシアを選んだけれどもこれでよかったんだろうか、国内旅行と同じように終わってしまったらつまらない。随分スピードを出すようだけど、いま何キロくらいで走っているんだろう。暇つぶしがてら運転席のほうを盗み見ると、スピードメーターがない。脇のモニターには「エネルギーモニター」と書いてあって、外気温とバッテリーの状態が表示されている。ダッシュボードのほうにあるかもしれないと思って首を伸ばしたが、やはりない。ほかの部品は揃っているのになぜかスピードメーターだけはないのであった。事故を起こさなければそれでいいや、と観念したが一キロもいかないうちに事故車に出会い、名古屋よろしく割り込みをしてくる車を相当数見たのであった。合流点が増え、だんだんと道は混んできたが運転手は何食わぬ顔をしてウィンカーを出さずに列へと割り込み、エンジンをふかした。白タクはカーブを抜けた。フロントガラスからはテレビでしか見たことのないヨーロッパふうの街並みが見えてきた。奥にはビルも生え始めていた。ほどなくして渋滞につかまり、私は左右を見渡した。水色やオレンジ色、薄緑の背の低い建物たち、キリル文字、不格好なナンバープレート、歩道を行く人々から聞こえてくるロシア語、店先で流れている大音量の音楽、エトセトラ。やはりここは日本ではない、ここはロシアなのだ、ここはロシアなのだ……。

ТОКИО

シベリア鉄道に乗ってみないか、と言われた。春のことであった。シベリア鉄道、そうだ、私が小学校の百科事典で「世界で一番長い鉄道。端から端まで九二八八キロメートルで、一番早い列車でも七日間かかります」と記述されているのを眺めたことがある。当時の私は見ず知らずの北の大地に思いを馳せた。窓の外には一面の銀世界が広がり、私はベッドに横たわりながらそれを延々と見続けている。通路では肌の白い人たちが何やら話し合っている。停まる駅ごとに大荷物を抱えた人たちが乗り込んでくる。ロシアへの誘いがこれらの空想を私の中に蘇らせた。
それにロシアは広い。私は元来大きいものが好きなのであった。幼少の頃、初めて東京のビル群を見たときに、私はこの都市が発信するとてつもないエネルギーに私の故郷が、いや日本中の都市が束になってかかろうとも上回ることはできないのであろうと小さな頭でぼんやりと考えていた。最近では釧路湿原をうろつきまわり、エゾシカやタンチョウヅルを眺めながら、このばかでかい自然にどの山野も勝てやしないであろうと、やはりぼんやり思ったのであった。私が愛読しているある本の作者もこのばかでかい好きの一人で、ミシシッピ川や摩天楼、テキサスの原野を見たらしいのだが、不幸にも彼は一日最低でも当時のレートで十ドルの予算を組まなければビザを与えられないという理由でソ連や東欧諸国への入国を断念した。彼の財布はばかでかくなかったのである。
では俺が代わりに見てやろう、時代は違えどもシベリアの草原やウラル山脈赤の広場を見てやろう。しかし財布がばかでかくないのは彼と一緒であった。
「向こうじゃ煙草が一二〇円で買えるぜ」
誘いをかけてきたSは、西東京にある私のボロアパートで寝そべりながらこう言った。
「本当か?」
「一ルーブルが三円のときの話だから、今はもっと安くなってるんじゃないか」
私はロシアへ行くことを決心した。私の頭は実に単純なつくりになっているのである。ドストエフスキーの作品に感化されてS広場で地面にキスするとか、ネフスキー大通りでゴーゴリの作品に同化しようと懐古の情に浸るなどとは思わなかったのであった。現に私はセンナヤ広場を歩きネフスキー大通りを歩いた。しかし、それは地下鉄に乗るためであったり、安食堂へメシを食いに行くために歩いたのであった。ドストエフスキーよりも煙草とメシが私にはお似合いなのであった。

おばあちゃんからの宅配便

祖父が死んでからというものの、月に1回祖母から荷物が来るようになった。大方レトルト食品やインスタント食品が中に入っている。毎度毎度インスタントみそ汁がついてくる。けれど、僕は食卓にみそ汁を付けるのを面倒臭がって戸棚の中に山ほどそれを積んでいた。あるときトマトの缶詰を2ダース買ってきて、どうやってしまうか悩んでいた。みそ汁をどけてまでこの缶詰をしまうものか?結局どけた。みそ汁はレジ袋に詰めて、コンビニのゴミ箱に放り込んだ。こんな薄情な孫の姿をみたら祖母はどう思うんだろう。祖父を亡くして寂しがっている祖母はますます寂しがって、悲しみのあまりに祖父を追うか、僕を無視するようになると思う。

慣らし運転

1000キロまではおとなしめに走ってください、と納車の時に言われた。最初はフルスロットルで走るようなことはしないでくださいね。

先輩に連れ回されて5000回転を超えそうなことがあった。周りが80キロで流している道だった。これが排気量の違いからなのか5000回転の制限があるからなのかわからないけれど、新しいエンジンに無理をさせようとするのは勘弁して欲しかった。ただうるさいだけのマフラーにアフターファイアをなびかせて、走らないか、走らないかと毎晩のように誘ってくる。僕は走りたいんじゃなくて旅行に出たいだけなのに。丸目のガチョウについていこうとは思わない。90年代の走り屋を引っさげたまま走りたくない。つるむために走りたくない。すり抜けをしてミラーに間抜けな傷をつけたくない。

1人で走っていると路面に意識が集中する。体の疲労とか、背負ったバックパックの重さなんてどこ吹く風、時速60キロでも1つの事柄に全神経が集まる面白さを感じた。脇をビュンビュン抜かしていく400ccのバイク便や銀行員のスーパーカブに気を取られることはなかった。

列車やバスに乗って移動していると流れる景色をぼうっと眺めているか、何か暇つぶしをしなければならないけれど、バイクはその景色を集中をもって流すことができる。自分が機械を司っているのだから、当たり前といえば当たり前だけれど。