道東記 前記と計画

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」と書いたのは芭蕉翁であった。我々が計画を立てるという行為をする時、現在の時間軸を離れ、来るであろう過客をこちらから迎えにゆく。未来は机上にありさえすれば、全てが私の思い通りになるのである。

 

2014年5月に休学届を提出し、病身であることを除けば、私は擬制の自由を手に入れたも同然であった。病院へ通い、親に対する罪悪感からアルバイトを続け、しかし給料を使う場所もなかった。

 

未来が現在になり、それが過去になったとき、新たな現在からその過去を垣間見ると負い目を感じるということが我々には起こりうる。私には、常に過去からの負い目を浴びるという危険があり、ただ旅行だけが私を責めなかった。初めて一人旅をしたのは中学生の頃であった。センター試験が終わってすぐに2回目の一人旅に出ていた。修学旅行や林間学校は、私が避けるような人たちともストレスを感じずに触れ合うことができた。

 

これら旅行の記念はなぜか安物のナップザックに詰められていた。写真や切符が整理されぬまま放り込まれたようだった。私が私自身で持つ救いというのはこれだけであった。遠い国の老婆がイコンを抱くように、或いは子供が壊れた玩具をいつまでも手放さないように。

 

北の大地は広い。北海道までずっと普通列車を乗り継いで行こうと考えた。私がいったことのある土地の北限を上げようとした。雄大な大地に触れれば病気も治ってしまうと思った(後にこの考えが甘すぎたことがわかる)。

 

こうなると、もはや歯止めが利かない。時刻表を購入し、1日中眺め続けた。日が暮れても朝が来るまで、私は北海道を飛び回っていた。どの切符を使えば金を切り詰められるか、別の交通手段はないか、有効期限が切れるギリギリまでどこを回れるか。梅雨は来ていなかったが、私は時刻表に閉じ込められてしまった。

 

閉鎖的な数字が延々と並ぶ時刻表の中で一際目をひく列車があった。2429D、日本で一番長い時間を走っている列車であった。これに揺られ、釧路湿原を見ながら納沙布岬を見、帰りに札幌で少し都会的な雰囲気を味わえば、普通列車だけでも北海道をそれなりに自分に取り込めるのではないか。

 

我々が関知し得ない日常はそこかしこにあり、それらは予定され、実行され、または何も為されていないかもしれない。これらに北土の香がかき消されないうちに、7日の間、私の中で起こったことを確認するために、旅行記を書こうと思う。