大弛峠の雲

雨が降らなさそうだったから、今日は午前中から秩父へツーリングに向かった。ゆるい峠道を走りたくて東秩父から定峰峠、そのまま昼食をとりに小鹿野まで下って行った。午後を持て余してしまうのが嫌で、とにかく近場で標高の高いところを探してみたら大弛峠が出てきた。

2000メートルを超えている。こんなところにキャブレター車が行ったらどうなるんだろう、少しの期待を持って県道を登り始めた。

どんどん登っていくうちに、自分がいつのまにか舗装林道を走っていることに気づいた。アスファルトは凸凹していて、半分洗い越しになっている部分とか昼なのに森のおかげで暗い通りなんかを抜けていった。明らかに車1台分の幅しかないところがあって、何もうつっていないカーブミラーを見ただけで安心しきってそのコーナーをクリアしていったはずだった。

カーブからの立ち上がりでジムニーと鉢合わせてしまった。すぐにバイクを立て直して左に寄ってみたら、前輪が土の上に乗ってしまっている。焦って肘を張ってしまって、FZ400は右に倒れた。すれ違ってすぐ、ジムニーがカーブの向こうで止まった。「大丈夫ですかぁ」の声がやたらゆっくり聞こえたふうに感じたのは、みっともない姿を見せたくなくて自分でも不思議なくらい素早く立ち上がってFZを引き起こしたからだったのだろうか。ウィンカーはカウルに埋まり、マフラーはエキゾーストパイプから外れていた。ジムニーの運転手は工具箱を開けてきてくれた。1度埋まったウィンカーはなかなか元の位置に戻ってくれない。仕方なくビニールテープで仮止めしてもらった。問題はマフラーだった。あろうことかトサイレンサーバンドはトルクスネジで留められていた。「俺のバイク、トルクスネジ使ってっからさ」とジムニーからトルクスレンチを持ってきてくださった。なんとか戻して、散らばったカウルの破片を拾い集めた。ひと段落ついて「バイク乗りはこういうとき助け合わなくちゃね」と言ってくれたけども、俺も悪かった、ごめんね、とでも言いたげな苦笑が唇に表れていた。お互いペコペコしながら別れ、なぜか自分は麓へ降りずにそのまま大弛峠を目指した。

頂上に着くと、登山客が10人くらい集まって談笑していた。そばには警察官がいる。4人のおばさんグループがFZと僕の土だらけになったブーツを見て、大丈夫だったの?ケガはしてない?みてあげようか?と気を使ってくれた。大丈夫です、足もちゃんと動きます、と彼女らの心配をかわしていると雲がこちらに動きはじめた。雲はゆっくりとFZと僕の方へ来て、何もかも包み込んでしまった。とたんに恥ずかしいという感情が消えて、できるだけ早く帰ろうという焦りもどこか行ってしまった。登山客も警官も、みんな声を小さくして雲の流れる音に耳を傾けていたようにみえた。

あの雲はいやな感情や考えをすっかり吸収して、視界は悪くても僕の心は晴れやかにしてくれていた。煙草を吸いながら、僕はこの雲にいつまでも抱かれていたい気持ちでいた。それでも、麓には日のあるうちに戻らなければいけない。警官の仕事を増やすわけにいかないからだった。夏に使うまでもないチョークを引いてエンジンをかけた。少しでも雲と触れ合いたくて、ヘルメットのシールドは開けっ放しにして峠をくだっていくと、顔全体に水滴がついていくのがわかった。ほんとうにこの雲と別れたくなかった。この体ごと僕を大弛峠に引き止めてほしかった。