幼なじみの夢

私には小さい頃から定期的に見る夢がありました。ビルから私自信が落ちてゆく夢です。3歳の頃からずっと、一人暮らしを始めてから少し経つまで見てきたのでした。

全部の落ちゆく夢は、灰色のガラス張りのビル、点線のひいてある道路、それだけが出てきました。自分が屋上から飛び降りる訳でもなく、落ちているところからはじまって道路が迫ってきたと思ったら起き上がるか、そのまま違う夢に入るか、真っ黒に熟睡してしまうか。ビルの夢に入るのも、真っ暗闇からいきなりビルから真っ逆さま、自分の寝室にいる夢から真っ逆さま、大きな父と話していたら真っ逆さま、なんの前触れもなく落ちてゆきました。

夢占いを見てみると、飛び降りたり着地したり、とりあえず1度は地面に足をつけてることが前提で、終始足が着かない私を占うものは1つもないのです。

今のアパートに移り住んで、3ヶ月くらいこの夢を見ることはありませんでした。けれど、ついに落ちてゆく夢ははたして出現したのでした。いつも通り、落下の途中で夢がはじましました。落ちる落ちる、もうすぐ道路だ、というところで、どたっ、と音がしました。ああとうとう落ちたのだ、安堵と不安が混じった気分で目を覚ますと、ベッドから私は落ちていました。マットレスがずれたのを直さずに眠っていたからみたいです。

それから今まで、私が本当に地面に足を着けてから、あの夢はもう見れなくなってしまいました。あの落ちてゆく、体が軽くなる感覚はなくなって、ずっと真っ暗な夢のまま眠っています。

デカビタ缶

大湊、田名部、私の一番古い旅行の記憶に登場してくる舞台だ。まだ2つか3つのとき、生まれたばかりの妹と一緒に家族そろって青森の祖母の家へ挨拶に行った。というのは建前で、本当は父と母が久しぶりにねぶた祭を見に行きたくて私たちを新幹線に乗せたのだった。

盛岡からは「はつかり」に乗って、野辺地からは母の言う「汽車」に初めて乗った。たった2両のディーゼルカーだった。想像していたよりも大湊が近かったことに拍子抜けしてしまった。着いてすぐ、「よぐきたにし」「ねまさない」と謎の言葉で青森の親戚一同に迎え入れられて、「こせ、こせ」と私は浴衣を着せられた。まだ日も暮れていないのにせかせかと料理を出された。祖母の手料理の中で、なぜか蕗の煮つけだけは今でも匂いも味も思い出せる、不思議だけれどおいしい料理だった。伯父さんたちは、どこの関羽がどうの、弁慶がどうだ、色々話している。母は伯母さんや祖母の使う謎の言葉を使って彼らと話していて、まるで別世界の住人になってしまったみたいだった。

 

「みつのはンづ、寄ってるんだぞ」と私の左手を握っている伯父さんは言った。「自衛隊でも、大湊はなかなか行かれなかったですから」と右腕をつかんで話すのは父だった。町一番の大通りは、男2人ででも子供をつかまなければ迷子にさせてしまいそうなくらい人がいたと思う。そのうち、私たちの前を不格好なスピーカーをつけた軽トラが何か言いながら走って行って、遠くから掛け声と太鼓の音が近づいてきた。怖そうなのと弱気そうな中学生の2人組が太鼓をダンダンと叩いて私の前を通った。お囃子をやっているおばあさんの集団や、小学生くらいの子たちがつまらなそうに列になっていたりだとか、海の上で剣を構えた赤い男のねぶただとか、たくさんの楽しくて騒がしくて綺麗なものが私の目と耳と皮膚を振動させていた。

ねぶたが終わってしまってから、私の記憶は急に大湊駅まで飛んでいる。父は仕事で家へ帰らなければいけない。乗ってきたときと同じ汽車がやってきて、私は泣きじゃくっていた。 もう二度と父と会えないのではないか、子供の本能なのかもしれなかった。祖母も母も、父も笑っている。「家に帰れば会えるのに」と言いながら、父はしゃがんで私と同じ目線になった。なんか買ってやるから、と自販機で何かを買い、私にそれを渡した。瓶のデカビタだった。その冷たさに涙が引っ込んでしまい、訳もわからないままフタをあけて、そのまま飲んだ。2口目、3口目あたり、瓶と顔を同時に上にして駅舎を見てみると、父は駅員に切符にはさみをいれてもらっているところだった。

そのあと、私と母と妹がどうやって帰ってきたのか、全く覚えていない。缶に詰め込まれたデカビタを飲みながら、私は父の帰りを思い出すのだった。

大弛峠の雲

雨が降らなさそうだったから、今日は午前中から秩父へツーリングに向かった。ゆるい峠道を走りたくて東秩父から定峰峠、そのまま昼食をとりに小鹿野まで下って行った。午後を持て余してしまうのが嫌で、とにかく近場で標高の高いところを探してみたら大弛峠が出てきた。

2000メートルを超えている。こんなところにキャブレター車が行ったらどうなるんだろう、少しの期待を持って県道を登り始めた。

どんどん登っていくうちに、自分がいつのまにか舗装林道を走っていることに気づいた。アスファルトは凸凹していて、半分洗い越しになっている部分とか昼なのに森のおかげで暗い通りなんかを抜けていった。明らかに車1台分の幅しかないところがあって、何もうつっていないカーブミラーを見ただけで安心しきってそのコーナーをクリアしていったはずだった。

カーブからの立ち上がりでジムニーと鉢合わせてしまった。すぐにバイクを立て直して左に寄ってみたら、前輪が土の上に乗ってしまっている。焦って肘を張ってしまって、FZ400は右に倒れた。すれ違ってすぐ、ジムニーがカーブの向こうで止まった。「大丈夫ですかぁ」の声がやたらゆっくり聞こえたふうに感じたのは、みっともない姿を見せたくなくて自分でも不思議なくらい素早く立ち上がってFZを引き起こしたからだったのだろうか。ウィンカーはカウルに埋まり、マフラーはエキゾーストパイプから外れていた。ジムニーの運転手は工具箱を開けてきてくれた。1度埋まったウィンカーはなかなか元の位置に戻ってくれない。仕方なくビニールテープで仮止めしてもらった。問題はマフラーだった。あろうことかトサイレンサーバンドはトルクスネジで留められていた。「俺のバイク、トルクスネジ使ってっからさ」とジムニーからトルクスレンチを持ってきてくださった。なんとか戻して、散らばったカウルの破片を拾い集めた。ひと段落ついて「バイク乗りはこういうとき助け合わなくちゃね」と言ってくれたけども、俺も悪かった、ごめんね、とでも言いたげな苦笑が唇に表れていた。お互いペコペコしながら別れ、なぜか自分は麓へ降りずにそのまま大弛峠を目指した。

頂上に着くと、登山客が10人くらい集まって談笑していた。そばには警察官がいる。4人のおばさんグループがFZと僕の土だらけになったブーツを見て、大丈夫だったの?ケガはしてない?みてあげようか?と気を使ってくれた。大丈夫です、足もちゃんと動きます、と彼女らの心配をかわしていると雲がこちらに動きはじめた。雲はゆっくりとFZと僕の方へ来て、何もかも包み込んでしまった。とたんに恥ずかしいという感情が消えて、できるだけ早く帰ろうという焦りもどこか行ってしまった。登山客も警官も、みんな声を小さくして雲の流れる音に耳を傾けていたようにみえた。

あの雲はいやな感情や考えをすっかり吸収して、視界は悪くても僕の心は晴れやかにしてくれていた。煙草を吸いながら、僕はこの雲にいつまでも抱かれていたい気持ちでいた。それでも、麓には日のあるうちに戻らなければいけない。警官の仕事を増やすわけにいかないからだった。夏に使うまでもないチョークを引いてエンジンをかけた。少しでも雲と触れ合いたくて、ヘルメットのシールドは開けっ放しにして峠をくだっていくと、顔全体に水滴がついていくのがわかった。ほんとうにこの雲と別れたくなかった。この体ごと僕を大弛峠に引き止めてほしかった。

たかだかバイトの分際で

大学を辞めるつもりで休学して、食い扶持を稼ぐためにレンタカー屋でアルバイトを始めたのは冬だった。最初は夜勤で入っていたけども、肉体的疲労が増していくばかりで無理を言って夕方から深夜にかけての時間にずらしてもらった。

レンタカー屋の書き入れ時は休前日と休日だ。駅前に近いから歩道も車道も賑わい、飛び込みのお客も相まって店の中はてんやわんやの大騒ぎになる。酔っ払いは道路に飛び出し、タクシーたちはしのぎを削って都道をすっ飛ばす。その間隙を縫って私は離れの車庫から車を持ってきたり持って行ったり、冷房のない空間で洗車したり、お客に向かってニヤつきながらオプションの話をしていたりする。飲み屋から聞こえてくるバカ笑いのデカい音を聞きながら。

離れの車庫から自転車で戻ってくるとき、どうしても商店街の中を通って行かなければならない。幅員は狭いわ人はイモ洗い状態だわ歩行者天国でもないのに看板は車も通れないくらい道に出してるわ、急いで戻らなきゃ、そう自転車を走らせてるとき、道に広がって歩く大学生、飲み屋の前でいつまでも解散しないワイシャツとスラックスの集団が制服を着た私の目の前で通せんぼしてくる。

こちらの信号が青に変わっても私の乗った車の前を平気な顔をして渡ってくる。僕はさっきまで働いてたけど、夜だし、労働なんて忘れちゃった、夜中は誰も働かないんじゃない?とかなんとか言い出しそうな人たちが。万が一に駅前の誰かを撥ねたとして、もしかしたら裁判官が私に同情してくれるかもしれない。減刑してくれるかもしれない。

もうほとんど心労が限界にきている。お願いだから、たかだかバイトの分際を14時間も休憩なしで働かせるのはやめてくれ、チームワークを乱す人間を月に20日間もシフトに突っ込まないでくれ!

いつかは金土をしがらみなしに過ごしたい。

1週間で2回交通事故を起こした

カタカナの「ト」の短い線から長い線へ出ようとしたら中央分離帯の縁石部分にフロントタイヤから突っ込んでいき、YZF-R3は縁石に叩きつけられ体は道路の上に飛んでいった。結果としてフロントフォークが歪み、アッパーカウルは剥がれ、メーターを留めておくためのステーは取れた。

 

数日後、友人に借りたGB250でバイク屋を見に行こうとした道、右からの救急車にすんでのところで気づき、ブレーキをかけすぎてフロントタイヤをロックさせた。もともとフロントフォークのねじれがあったから、パニックになった私はハンドルを真っ直ぐにしたけれどもタイヤはそっぽを向き、そのまま右に倒れていった。道路の上をほとんどヘッドスライディングしていき、サイレンを鳴らしていた救急隊員は私の方へ駆け寄り、二言三言声をかけてさっさと行ってしまった。

大学生のソロツーリング入門

私がオートバイを買ったのには「乗り物を自分で運転する旅を経験しておきたい」という理由があった。電車やバスに乗っているとメシを食う、眠る、考え事をするの繰り返しになってこれはこれで面白いのだけれども運転していればメシは食えず、眠れず、考え事をしていたら事故を起こす。去年あたりはそう考えていた。本当にそうなるのだろうか?

 
運良く今夏は2週間ほど西日本をツーリングする機会に恵まれた。山陽山陰そして四国……1日に下道だけで600キロを走るような日もあった。当然渋滞もあるし、「越波注意」の看板がある道で波しぶきを浴びたりもした。しかし意外にもオートバイで走りながら考え事をする、ということはできた。交通法規を守り、前の車が遅くとも車間距離をあけていれば自然に心の余裕が生まれ、そこから周りの景色をちらちらと盗み見するように見、アクセルをひねりながら物思いにふけり、県域FMのMCやDJの喋る言葉の中で気に入ったものがあれば次の休憩でメモをとっていた。この作業はかなり楽しいものだった。
f:id:friske6:20160907065111j:image
 
そもそも行きずりの関係が多い旅という行動に私の性格が合っていたのかもしれない。長距離列車の中でお寒いですね、どこまでいかれますか、列車に乗ってポルトガルまで、そうでしたか、お互い気をつけていきましょう、という他愛もない会話はオートバイに乗ったとしてもほとんど変わらない。Ninjaかっこいいですね、どちらまでいかれますか、フェリーに乗って北海道まで、ではお互い安全運転で……。それっきり一生会わないだろう人間に話しかけ、別れればまるで何もなかったようにエンジンを始動させる。遠くから来たからといって特別扱いはされない。観光地の駐車場にオートバイが並んでいてもライダー同士の会話が弾むとは限らないし、互いの存在がないかのように振る舞うこともある。列車の旅と違うのはこの部分だろうか。日本人同士、シャイなところが表立っていると言えばそれまでだが旅行中の解放的な気持ちをもってしても克服できない。どちらにしろ旅の関係が一生の友、将来の伴侶となるのは異例中の異例なのだから躍起になってやたらめったらに話しかけると白眼視され、行きずりの関係すら危うくなる。
f:id:friske6:20160907065017j:image
 
関西のライダーのたまり場にも行った。関東でいえばそれぞれエバグリのような場所と奥多摩のような場所だ。「東京から来なはったんやって」と言ってもらっても彼らがかわいいと思うのはそれぞれのオートバイだ。俺のバイク撮ったってや、とおどけられて何枚か写真を撮ったがそれを後で送ってくれとは言われなかった。
f:id:friske6:20160907064852j:imagef:id:friske6:20160907064919j:image
 
新鮮味はこれまでよりもかなり疲労がたまるということにあった。日中ほとんど同じ体勢を保つのだから当然だ。眠っている間に遠くまで来てしまったという驚きはあるはずもないが、今日1日を有効に使ったという満足感は手軽に得られる。1日の終わりに日記をつける余裕はなくなったけれども休憩中のメモを読んで後で思い出せば良い。あとは地図を見て、スマホをいじりながら明日の目的地を決めれば良い……。
 
子供の頃は寄るたびにワクワクしていたSAやPAもソロツーリングでは心動かされることはなかった。人っ子ひとりいない地方の小さなPAだけでなく、人気のあるSAでも旅行中なんだと自覚することはなかった。それよりも下道のコンビニやドライブインや道の駅の方が、ああ俺は遠くへ来たのだと思えることが多かった。
 
オートバイは素晴らしい。4輪の旅にも興味が沸いてきた。2輪免許をとってから幾度か妄想しているのが軽トラの荷台に幌をつけ、中に布団を敷いて夜にはどこかに車をとめて荷台で眠る旅行だ。明日からは教習所の教官を急かすことにしよう。

НАРИТА

ロシア機は古いという固定観念もまた古かった。成田空港に駐機しているのは隣にいる全日空機と同じくエアバスだった。チェックインは厳格だろうと思い、ありもしない英語を強引に引き出して不測の事態に備えたのだが、カウンターに並ぶのは客も従業員も日本人がほとんどであって、私の一夜漬けは試験よろしく徒労に終わった。15:40発、19:20着、時差を差し引きして2時間40分のフライトだった。夕食時でもなかったから機内食トルティーヤ一つの簡素なものだが、案外おいしかった。駐機場から滑走路へのタキシングの間に、背が高く肩幅も広いスキンヘッドのロシア人乗務員が乗客に緊急時の脱出について実演しながら説明していた。首にかける浮き輪を彼がかけたとき、まるで赤ん坊のようだった面白くそれを見ていた。彼がせわしくお茶を配り、ゴミを回収したかと思うとエアバスは降下を始めた。眼下にはただ一面の草原と沼が広がっていた。だだっ広い草原と沼、これしか見えないのにますます降下する、まだ降下する、紅白のチェック柄の小屋がすぐそばに見えたと思ったらエアバスは滑走路に進入していた。駐機場には軍用のヘリコプターと小型旅客機が肩を並べ、我々の機体は幅を利かせていた。
ボーディングブリッジで赤ん坊乗務員に見送られるとターミナルへつながる部分の最深部から水色のカッターシャツを着、カーキ色の制帽を被った警備員がこちらを見ていた。近づいていくと、日本にいても違和感のない顔立ちの警備員がいた。彼は飛行機から最後に降りてきたグループについてきて入国審査場の一番後ろに立ち尽くしていた。大きなグループの後ろにつき自分の番を待っていると、後ろから警備員が呻き、振り返ると彼は私に「右が空いたから行きたまえ」とばかりに「審査中」のサインが点灯したブースを指し示した。恐る恐る近づいてみると審査中の人間はおらず、代わりに面倒くさそうな顔をしたおばさんがアクリル板の向こう側にいた。「もう上がりにしたかったのに」と言わんばかりであった。私のパスポートに無言でスタンプを押し、さっさと返してきた。
面倒くさそうなのは税関も同じであった。ターンテーブルのそばに税関職員らしきグループがいたのであったが、入国カードも荷物の開示も要求せず、我々は黙ってバックパックを受け取り到着口へ歩くのみであった。
ウラジオストク国際空港から市街地へと走る白タクの中で、私は自動車販売店が連なっているのを認めた。日産、トヨタマツダ、スバル……。販売店だけではなく、周りの車も日本車がほとんどであった。この国は右側通行右ハンドルなんだな、と思わせるくらいに日本の中古車が多かった。この白タクもプリウスの中古らしく、乗り込むなり「ETCカードが挿入されていません」と間抜けな自動音声を発していたのであった。運転手はずっと無言であるし、窓の外には日本の郊外とそう変わらない景色が続いていた。俺は旅行先にロシアを選んだけれどもこれでよかったんだろうか、国内旅行と同じように終わってしまったらつまらない。随分スピードを出すようだけど、いま何キロくらいで走っているんだろう。暇つぶしがてら運転席のほうを盗み見ると、スピードメーターがない。脇のモニターには「エネルギーモニター」と書いてあって、外気温とバッテリーの状態が表示されている。ダッシュボードのほうにあるかもしれないと思って首を伸ばしたが、やはりない。ほかの部品は揃っているのになぜかスピードメーターだけはないのであった。事故を起こさなければそれでいいや、と観念したが一キロもいかないうちに事故車に出会い、名古屋よろしく割り込みをしてくる車を相当数見たのであった。合流点が増え、だんだんと道は混んできたが運転手は何食わぬ顔をしてウィンカーを出さずに列へと割り込み、エンジンをふかした。白タクはカーブを抜けた。フロントガラスからはテレビでしか見たことのないヨーロッパふうの街並みが見えてきた。奥にはビルも生え始めていた。ほどなくして渋滞につかまり、私は左右を見渡した。水色やオレンジ色、薄緑の背の低い建物たち、キリル文字、不格好なナンバープレート、歩道を行く人々から聞こえてくるロシア語、店先で流れている大音量の音楽、エトセトラ。やはりここは日本ではない、ここはロシアなのだ、ここはロシアなのだ……。