デカビタ缶

大湊、田名部、私の一番古い旅行の記憶に登場してくる舞台だ。まだ2つか3つのとき、生まれたばかりの妹と一緒に家族そろって青森の祖母の家へ挨拶に行った。というのは建前で、本当は父と母が久しぶりにねぶた祭を見に行きたくて私たちを新幹線に乗せたのだった。

盛岡からは「はつかり」に乗って、野辺地からは母の言う「汽車」に初めて乗った。たった2両のディーゼルカーだった。想像していたよりも大湊が近かったことに拍子抜けしてしまった。着いてすぐ、「よぐきたにし」「ねまさない」と謎の言葉で青森の親戚一同に迎え入れられて、「こせ、こせ」と私は浴衣を着せられた。まだ日も暮れていないのにせかせかと料理を出された。祖母の手料理の中で、なぜか蕗の煮つけだけは今でも匂いも味も思い出せる、不思議だけれどおいしい料理だった。伯父さんたちは、どこの関羽がどうの、弁慶がどうだ、色々話している。母は伯母さんや祖母の使う謎の言葉を使って彼らと話していて、まるで別世界の住人になってしまったみたいだった。

 

「みつのはンづ、寄ってるんだぞ」と私の左手を握っている伯父さんは言った。「自衛隊でも、大湊はなかなか行かれなかったですから」と右腕をつかんで話すのは父だった。町一番の大通りは、男2人ででも子供をつかまなければ迷子にさせてしまいそうなくらい人がいたと思う。そのうち、私たちの前を不格好なスピーカーをつけた軽トラが何か言いながら走って行って、遠くから掛け声と太鼓の音が近づいてきた。怖そうなのと弱気そうな中学生の2人組が太鼓をダンダンと叩いて私の前を通った。お囃子をやっているおばあさんの集団や、小学生くらいの子たちがつまらなそうに列になっていたりだとか、海の上で剣を構えた赤い男のねぶただとか、たくさんの楽しくて騒がしくて綺麗なものが私の目と耳と皮膚を振動させていた。

ねぶたが終わってしまってから、私の記憶は急に大湊駅まで飛んでいる。父は仕事で家へ帰らなければいけない。乗ってきたときと同じ汽車がやってきて、私は泣きじゃくっていた。 もう二度と父と会えないのではないか、子供の本能なのかもしれなかった。祖母も母も、父も笑っている。「家に帰れば会えるのに」と言いながら、父はしゃがんで私と同じ目線になった。なんか買ってやるから、と自販機で何かを買い、私にそれを渡した。瓶のデカビタだった。その冷たさに涙が引っ込んでしまい、訳もわからないままフタをあけて、そのまま飲んだ。2口目、3口目あたり、瓶と顔を同時に上にして駅舎を見てみると、父は駅員に切符にはさみをいれてもらっているところだった。

そのあと、私と母と妹がどうやって帰ってきたのか、全く覚えていない。缶に詰め込まれたデカビタを飲みながら、私は父の帰りを思い出すのだった。